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練吉は小学校時分のことを思ひ出したのかふいにをかしさうに笑ひ声を立てた。
「相手は誰です?こゝの御隠居ですかい」
これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋ぼうおくの黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛まもっているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖いふの下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。
昨年の冬あたりから、何を思つたのか彼は写真に残つている先代のやうに髯をのばしはじめた。最初のうちはもじやもじやしたごま塩の汚たならしい色で、皆から可笑をかしがられてばかりいたが、のびるにしたがつて白味を加へ、似合つて来、そのあることがあたり前にさへなつていた。殊に病中には、彼がもどかしがつて口をあくあくさせる度に、髯のはしがびりびりふるへ、はね返り、遠くにいても彼が何か云ひたがつていることが判つたくらいで、したがつて彼の身にもついていれば、はたの者の目にもすつかり馴染まれていたのである。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つていた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出ていたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げている人達の半身を照していた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしていた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つていた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つていた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
「や、失礼、おさきに」
道平はまるで大きな輪がゆつくり廻つていて、その一点の結び目が眼の前に現はれたときにやつと口を開くかのやうであつた。
「私も眠れなくて夜中に一度湯へはいるのですが、なんだか気味が悪るござんしてね。隣の湯へ溪から何かがはいって来るような気がして――」
「いや、挨拶まはりですよ。どうぞよろしく」
と、加藤巡査は無意識に汗の滲み出た額のあたりを指でこすりながら、心配さうに大小の焚火を見やつた。彼の声はしはがれていた。
房一が云ひかけると
患者は満足してかへつて行つた。だが、房一は患者以上に満足していた。おれの云ひ方はあれでよかつたかな。もつと噛んでふくめるやうに話して聞かせるんだつたかなと、たつた今自分が云つたり、したことを、もう一度目の前に思ひ描きながら、房一は永い間廻転椅子の中に身をうづめていた。